あの日のことはよく覚えています。あれが、始まりでしたから



「あ。」



わたしは椅子の上に腰かけたままほんの少しだけ身じろぎをしました。窓の方に体を向けます。ぎぃと小さな音が鳴ります。椅子が、たぶん古いのです。


窓から見た外は荒涼としています。ついこの間まで赤や黄と染まっていた木々の葉っぱがだいぶ落ちてしまいました。とても物寂しい。冬が始まりかけていました。
改めて実感すると、暖房の良く聞いたこの教室ですが、窓際の私の席は少し寒いような気がします。膝の上の膝掛けのかかっていない腿の裏がひんやりとしました。冷え症なのです。
すこしきゅうけい、と教科書とノート、それから黒板の前で熱弁を繰り広げる教師から視線をはずしました。窓の外できらりと光るものが一つ見えます。あれはなんでしょう。広い運動場の隅っこです。枯れ芝生の端です。それは黒くて四角でした。なんとなくデジャヴのようなものを覚えます。





















放課後になってその例の四角の辺りをうろつきました。黒くて四角いと思っていたそれは地面に筆先からおとしたインクのようなマークです。もしくは深いばっかりに底が見えない穴のようにも思える。落とし穴みたいなちゃちなものではなく、次元の穴とか、時空の穴だとか、そういうエスエフな響きが似合いそうな円です。真っ黒な円。3Dみたいな感じで、とても非現実的な円です。地表を削り地中を通り抜け、まるで落ちたら、骨も何もかもめちゃくちゃに砕けてもう二度と助からないような、そういう現実感のあるものではなく、そこにただあるような、落ちたら、堕ちても、その先で生きていけるということを、安易に想像してしまうような穴です。地上に生まれた円。黒くて少し怖い何かです。


わたしは流石に瞬きしました。円からは甘くてとても良い匂いが漂っています。わたしは少しだけ迷ってからしゃがみこむとそれに手を伸ばしてみました。黒にわたしの手は入り込みます。感覚はないです。吸い込まれるということもありません。ただ指先はすこし温かかでした。手触りのない液体に手を突っ込んだような感じです。何でしょう、コレは。何でしょう。


わたしはもう一度瞬きをしました。唇を噛みます。手を抜いて立ち上がりました。そして、











いいえ。そのときのことをいまでもよくおもいだせません。
ただ、その何時間にも及ぶ長い落下の中で、わたしは多くのものを目にしました。本当に、とても多くのものを。
私はおそらく一度そこで死んだのです。弐度と戻ることのできない長い旅路に踏み入れたのです。
























高度はおよそ10メーター。いや20メーターだったかもしれません。知っていますか・メートル法が定まったのは1970年のフランス革命後ですよ。あは、すみません。無駄な知識をひけらかしたりして。ええ、とにもかくにも、とにかくわたしは落ちて、堕ちていて、堕ちていると気がついたときにぐしゃっと潰れました。


ぎゃあ!


骨折の経験がないわたしでしたけれど、色々なものが折れて曲がって傷ついたことぐらい気づけます。とても痛かったです。あんまり痛くて死ぬかと思いました。正直死んでしまうのだなぁと確信しました。終わってしまうんだなぁと。痛くてわたし、泣きました。


うええええん。うええええん。


そのときです。近くの木の根元に寝転がって日向ぼっこをしていたその、「ネコ」が起き上がりました。その「ネコ」はわたしを見て「胸の上に乗せていた本を落とす」と「まっ!」と言いました。眼をぱしぱしと瞬きさせます。


「たいへんっ!」


ネコ!いいえわたしは絶対おかしくありません!頭が狂っているんじゃありません!嘘っ!それとも、狂っているんで、しょう、か。しかしそれは本当に人間で、ネコで、バケモノだったんです。



人間の体。2足歩行に適した身体。手、足、身体、胴、胸、腕、首、頭。そしてジーンズに上衣といういでたちです。しかしわたしに駆け寄るその体は体毛でぎっしりでした。らんらんと興奮して輝く顔、ぴんとはった髭がついている顔。上にピンと伸びた茶色の耳、ピンク色の肉球のついた手がわたしに近づき、助け起こしてくれました。


ネコは言います。「あなた大丈夫!?姿現しに失敗したのね・・・」正直の所わたしはとても恐ろしかったんです。食われるかと思いました。触れて欲しくないと思った。気持悪かったです。でもこの時はそれよりもっと、体がとてもすごく痛かったんです。だってわたし、死にかけだったんです。しんじゃいそうだったんだですよ。
怖かったし気持ち悪かったし、けれど仕方なく私は言葉の通じるネコに助けを求めました。血塗れの口で呟きます。


「たすけて、たすけてください」


ネコはにゃんにゃんと言います。眼を細めて、あぁそれがなんだか嬉しそうにみえますきもちわるい。こわい。この、


ばけもの。


わたしの背中を持つ腕はとても力強かったです。あんまりあんまりで、もっと折れちゃいそうでした。そのネコが細くて長い棒切れをふわふわの指にはさんでわたしに向けます。すると驚くことにわたしの傷はたちまち癒えたんです。次にネコはその細くて長い棒切れを空中へと向けました。わたしの腕はがっちりと掴まれたままですけれど。


わたしはあらゆる痛みが急に消えたことに驚いていました。そして入れ替わりに目の前の怪物を恐ろしく、気持ち悪く思う感覚が入れ替わりに激しく起こります。「すぐに誰かを呼ぶから待っててね」ネコはにゃんにゃんと鼻息荒くそう言いました。空中に細くて長い棒切れを差し出しています。めをつむって何事か集中しているようです。


誰か?誰かとはダレなんでしょう。私が知っている人でしょうか。彼女と同種の人なんでしょうか。バケモノ?わたしは恐怖のあまり一度震えました。毛むくじゃらの顔を見上げます。こんなバケモノが、もう一匹いたらわたしは心臓がやられて死んでしまうかもしれません。ふんふん、とネコの鼻息は相変わらず荒いです。わたしはただ恐ろしくって、こわかったので、


ネコを、























もろい棒切れを粉々に折りました。一緒に林の中に捨ててしまいます。わたしはネコを置いて丘を転がるように降りました。そして民家が近づくたびに隣の丘へと登ります。何日も、何日も。まるで根なし草です。眠る場所がありません。お風呂に入れません。ご飯をどうしたらいいのかわかりません。暗い空を見上げて、ただ眠る。
そんな生活を続けて、わたしはすでにかなりやせほそって、年齢よりもっとずっと幼く見えるようになります。くしゃくしゃにもつれた真っ黒で長い髪の毛。それにうもれたはだは泥だらけだがやたら白いです。(そして彼女の目は大きくすばらしくうつくしい。)いつも裸足で歩いているせいでしょうか、足は真っ黒、スカートもブラウスも汚らしく泥だらけでした。だぶだぶの上衣で寒さをしのんでいます。わたしは再び死にかけました。
けれどそれでもすこしずつ、そうすこしずつならば、




思い出し始めるのです。赤や黄色に染まったあの温かな季節。























馬鹿なわたしは生まれてまもなく精神に異常をきたしていて家を飛び出しては丘の上の暗い空の下で眠っています。そして何度も両親に連れ返され温かな家に戻ります。けれどやはり頭がおかしい私は三日もせずに逃げ出したくてたまらないのです。逃げ出します。連れ返されます。そんなことを繰り返します。
とうとぅこんな馬鹿な娘を持つことが苦しくなったかわいそうな両親は私を温かな家ではなく町を通り抜け大きな白い建物まで連れ戻すことにしました。それは精神病患者のための病院で、そこでわたしは徹底的な検査を受けます。教授や看護人たちはとても親切で笑ったり馬鹿にしないでわたしの話にとても興味を持っているように見えました。しかしわたしにはわたしの話を少しでも信じてもらえたという気持は全くしなかったです。それどころか大人たちが何を考えているのかなんてわたしには全く良く分かりませんでした。そして対峙しあうように大人たちのほうもわたしを院から出してはくれませんでした。
わたしは不思議な呪いにかかっているようでした。物心ついたときから時部に外の人間が「動物」に見えたのです。自分だけが「ヒト」に見えたのです。両親が言うところによると、わたしが生まれたころ家のある丘近くを危険な魔法使いがうろついていました。近所の家のひとつが荒らされ、その家の奥さんが自宅近くの丘で殺されたそうです。犯人は結局わからずじまい、おそらくわたしに呪いをかけたのもその人物だと考えられています。


幼かったわたしはなにもおぼえちゃいませんでした。うまれた最初のうちはただそれがとても怖かったです。以下は誰も信じることが出来なかったばかなわたしが、ほんの5歳のころ、毎日書いていた日記の中の一文です。記しておきます。



<ヒト。ヒト。ヒト。それは完全なヒト。あちらの世界でいうところの人間であるヒト。地球という小さな世界の中で現在のところヒエラルキーの頂点に君臨する生物。しかしこちらのせかいではちがう。ヒトこそもっとも淘汰されなかった人間であり人種である。ゆえに滅んだ。およそ200年前、その当時生残っていた数少なかった最後のヒトがほろんだ。ネコ、クマ、イヌ、サカナ、トリ、ウマ、そのほかあらゆる人間の中でただ一種、わたしたちは滅び去る。そしてふたたびうまれくる、ヒト。
それはある日とつぜんあらわれる。山に、海に、空に、砂漠に、街に。ある平凡な人間の一家にぽっかりと生まれくる。彼らは保護された。ヒト、はよわかった。ネコのようにしなやかじゃなかった。クマのように力強くはなかったし、イヌのように嗅覚がすぐれてはいなかった。サカナのように水をかくこともトリのように高く舞い上がることも出来なかった。ウマのようにヒトははやくはしれなかった。
しかしたとえひ弱さを貶されて、謗られても、それでもわたしたちは、人間だ>



実にトチ狂った文章です。実にまったく、トチ狂ったわたしにふさわしい。このころの記憶はほとんどないですけれどわたしのきちがい度、そんなものがあればの話ですが、とにかくとても高いレベルを指していたと言えるでしょう。


今はきちんと知っています。たとえ理解できなくともわたしが指を延ばして触れた先が感じる柔らかな毛皮は、この世界のだれしもが持つものなんです。私のように毛皮一つない、そんな人種こそが珍しいんです。
ネコ、クマ、イヌ、サカナ、トリ、ヒト。世界中に億千の人間が存在するように、あの空高い天に数え切れぬ星が存在するように、人間はさまざまなのです。さまざまな人種がこの星には存在している。
なのに私、毛皮のある人間にどうしてもおびえてしまう。私はちょっとした呪いに今も縛られているだけなんです。人間であるみんなが「バケモノ」に見えちゃう。私の頭がおかしいんです。いたずらに皆におびえてる。私が「バケモノ」なんです。




わたしは再び暗い空を見上げました。肌寒い夜です。風がとても冷たいです。つい数日・前日・いくつか前、わたしは病院を上手く抜け出しました。



長い道のりを歩きます。幾度も傷つきました。院に戻ろうと少し思いましたが、帰り道がわからなくって帰れません。わたしはすでにかなりやせほそって、年齢よりもっとずっと幼く見えます。くしゃくしゃにもつれた真っ黒で長い髪の毛。それにうもれたはだは泥だらけだがやたら白いです。(そして彼女の目は大きくすばらしくうつくしい。)いつも裸足で歩いているせいでしょうか、足は真っ黒、スカートもブラウスも汚らしく泥だらけでした。だぶだぶの上衣で寒さをしのんでいます。まるでいつかのときのようです。いつか、あれ、いつかとはいつのことでしょう?
いつかとは、いつのことでしょう。家を抜け出してばかりいたあの頃のことでしょうか。いいえ、いいえ、そうだったかな。私の両親は温かな人です。こんなに何日も、何日も、わたしをほおっておいたときがあったかしら。いいえなんだか、もっと遠く、もっと遠くの日に、わたしは、

わたしだけがまだ。「人間」だったころ。
あの荒涼とした、冬の始まりを告げた、エアコンんの動く音を思い出しながら


ほら、馬鹿みたいです。わたしはずっときちがいです。こんなになっても、自分は自分でないのだといつも泣きます。愛すべき家族を赤の他人、あるいは幻覚、バケモノとののしります。こんなのでは、むしろわたしこそがケダモノ。



その晩
わたしはいつものように森の中で夜を過ごしていました。空腹であることに慣れ始めていました。生きていることすらつらかった。けどまだ呼吸していた。
そうして寒さにおびえているうちに、そのうちに、丘の下の温かな灯りを機能炉の中から覗いているうちにわたし、世の中は腐っていると考えました。くさりきって、やがるんです。

どいつも、こいつも。


わたしはないてすがりました。おねがいやめてと叫びました。厚くて汚い手が口をふさぎます。こぶしが雨あられのように降り注いできます。顔に飛んでくるこぶしの形まで良く見えました。自分のものじゃないように力なく倒れた腕。森の地面に白く浮かぶ自分の肌の色が見えました。驚きの白さです。光ってすら、います。彼ら動物たちのすがたが互いに溶け合うように重なりました。


夜は深かったです。ますます深くなっていきます。上の下着がはがされたとき、ウサギの美しくも赤い目はどんよりとにごりました。わたしはその顔を数センチ先に見て心に焼き付けます。酒臭い息が胸に擦りつけられて、泣いて喘いで悲鳴を上げました。夜はいつだっておぞましいです。ハンティング・ナイフの切っ先がきらめいてわたしの頬の目の下の部分にそっと当てられます。木々の間から月と星の光がみえました。




そうしてわたしはめをさましたのです。



エメラルドの閃光が地面を駆け抜けました。それは決死のエネルギーです。目が焼かれました。エメラルドの力。生命の躍動。動物たちが動かなくなって暫くしてわたしはようやっと顔を上げます。たった一匹だけ気を失っていない動物、否ヒトに気づき、わたしはひっと思わず声を漏らしました。それはキリンです。夜の森の闇の中でぼんやりと浮かぶ黄色に茶の斑点はひどく気味が悪く、漂う雰囲気は若々しいとも年老いているようにも思えない、どことなくやつれているかんじを覚えさせます。


キリンはその物憂げなまなざしに似合わない笑いを口元に浮かべていました。ニタ、ニタ。わたしはあとずさりします。足の裏に張り付いた若々しい葉がうっとおしいです。キリンは口をひらきました。見下したような、性悪のする口調です。
間違いありません。まだ両手で数えられるような弱いで尚且つ人生のほとんどを病院の5回の小さな個室で過ごしている、引きこもりも裸足で逃げ出すような箱入りの娘、そんな私の言うことですが間違いありません。
人に会ったことは少ないです。けど色々な人には会ったのです。色々いじめられたのです。だから間違いありません。間違いない。この人は、性悪です。


「はーん、あんた、魔法使いだったの」